barikatuoの日記

日常の出来事や記念日と雑学、豆知識、趣味の釣りや食べ物(特にラーメン)をつぶやいていきます。よろしくお願いします。

脱出の日

こんにちは☀️

 

今日2月26日は、

 

●脱出の日

 

 

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1815年の2月26日、

エルバ島に流刑されていた、

ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769~1821年)が島を脱出してパリに向かった。

 

1814年フランスの北東には、

オーストリアプロイセン軍

北西にはスウェーデン軍、

南方にはイギリス軍の大軍がフランス国境を固め、

大包囲網によりフランス帝国の首都パリは陥落した。

 

ナポレオンは外交によって退位と終戦を目指したが、

マルモン元帥らの裏切りによって無条件に退位させられ、

フォンテーヌブロー条約の締結の後、

地中海コルシカ島とイタリア本土の間にあるエルバ島の小領主として追放された。

 

1815年、

ナポレオンは流刑地であるエルバ島を脱出後し、

パリに戻ってわずか1ヶ月弱で皇帝の座に返り咲くこととなりました。

 

ナポレオンは自由主義的な新憲法を発布し、

自身に批判的な勢力との妥協を試みた。

 

そして、

連合国に講和を提案したが拒否され、

結局戦争へと進んでいく。

 

しかし、

緒戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗してナポレオンの復位は幕を閉じました。

 

帰国して復位してから再びその地位を追われるまでの、

およそ100日間の一時的支配を「百日天下」といいます。

 

ちなみに、
日本にも流刑後に脱出して再起を遂げた歴史上の人物が存在し、

源頼朝

後醍醐天皇

などが挙げられます。

 

・脱出の日にちなんで脱獄にまつわる雑学を紹介します。

 

 

パスカル・ペイエ

 

 

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日本でも報道された有名な脱獄劇です。


パスカル・ペイエの脱獄の手口はとてもダイナミックであり、

なんとヘリコプターを使って脱獄を実行し、

何度も成功させてしまうのです。

強盗殺人と過去の罪から無期懲役となっていた、

パスカル・ペイエは2007年7月15日に三度目のヘリ脱獄に成功します。


仲間がハイジャックしたヘリを使って脱獄を試みましたが、

所要時間はわずかの5分という手際のよさでした。

2ヶ月後にはスペインで捕まり現在も刑務所で服役中となっています。

 

 

●ビリー・ヘイズ

 

 

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日本では所持していると違法となる大麻ですが、

アメリカでは州によっては所持や使用が許可されています。


そんなアメリカで育ったビリー・ヘイズは1970年に旅行でトルコを訪れた際、

麻薬を所持していたため麻薬密輸の疑いで罪に問われた結果、

逮捕されて投獄されました。

トルコの刑務所の劣悪な環境に耐えかねた彼はなんとか刑務所から脱獄し、

盗んだ小型ボートでエーゲ海へ脱出、

その後にギリシャへと漂着しました。


その後、

ギリシャの警察に捕まることになったのですが、

彼は運良くアメリカへすぐに戻ることとなりました。

なぜなら、

ギリシャ人はトルコ人のことが大嫌いだったため、

ギリシャの警察が彼の身柄をトルコへ引き渡さなかったのです。


この話は帰国した彼によって、

ミッドナイト・エクスプレス」というタイトルの本で出版されることとなりました。

 


●アルフレッド・ウェツラー

 

 

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ルフレッド・ウェツラーはこれまで紹介した人と異なり、

犯罪で逮捕されたのではありません。


彼は第二次世界大戦時にナチスによってアウシュビッツ強制収容所に監禁されていました。

歴史で習ったとは思いますが、

アウシュビッツでの生活はまさに地獄のような生活となります。


彼は同じ故郷のルドルフ・ヴルバと共に脱獄を試み、

捜査の手から逃れるために材木の下で空腹に耐えながら4日間を過ごしました。

操作が緩くなった隙を見た彼らはフェンスの下に掘った穴から収容所を脱出し、

あらかじめ盗んで用意しておいたスーツに着替え、

歩いてポーランドを立ち去ったのです。


脱獄後に捕まれば死は免れない中での勇敢な脱獄を成功した彼らは、

アウシュビッツでの惨劇を連合国軍に広めてまわりました。

その結果、

アウシュビッツ行きの列車を止める事に成功し、

数多くの人命が救われたのです。

 

 

 

●ラッピングの日(包むの日)

 

 

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2月26日は「ラッピングの日(包むの日)」

 

「2(つ)2(つ)6(む)」の語呂合わせから、

株式会社包むが制定した記念日です。

(東興資材工業も2月26日を「包むの日」に制定しています)

 

大切な人に感謝の気持ちをこめて贈り物を包み、

楽しさと豊かさを届ける日とされています。

 

 

●咸臨丸(かんりんまる)の日

 

 

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万延元年1月13日(新暦1860年2月4日)に、日米修好通商条約の批准書交換のため品川沖を出航し、

アメリカへ旅立った江戸幕府の軍艦「咸臨丸」が、

万延元年2月26日(新暦1860年3月18日)に、

サンフランシスコに無事到着したことにちなんで制定された記念日。

 

 

 

この咸臨丸のサンフランシスコ行きには、

福沢諭吉

勝海舟
中浜万次郎(ジョン万次郎)」

も搭乗していました。

 

一行は、

批准書交換という大役に加えて、

日本人初となる正式な太平洋横断航海を成功させたことでも歴史に刻まれています。

 

また、

咸臨丸が品川沖を出航した1月13日は旧暦の日付のまま、

「咸臨丸出航記念日」
として制定されています。

 

 

・2月26日は何があった日?

 

 

●2.26事件

 

 

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1936(昭和11)年2月26日、2.26事件が発生。


皇道派思想の影響を受けた陸軍青年将校らがクーデターを目論み、

首相官邸などを襲撃する事件が発生。


齋藤實内大臣

高橋是清蔵相、

を含む10名弱がこの襲撃により命を落とすこととなりました。

 

閣僚や議員ではなく天皇親政の下での国家改造を目指した活動思想で、

昭和維新とも表現されています。


陸軍青年将校ら20代が中心となり、

昭和維新・尊皇討奸をスローガンに掲げ、

武力を以て元老重臣を殺害すれば、

天皇親政が実現し、

政財界の様々な腐食現象や、

農村の困窮が収束する
との考えが広がっていました。

 

クーデーターの首謀者は約1,560名にも及び、

総理大臣官邸、
警視庁、
内務大臣官邸、
陸軍省参謀本部
陸軍大臣官邸、
東京朝日新聞
などを占拠し、

昭和天皇昭和維新を訴えるも、

天皇はこれを拒否しました。

 

そのためクーデーター実行者たちは、

叛乱軍(反乱軍)とみなされることとなり、

政府軍に武力鎮圧や威圧されクーデターは未遂に終わる結果となりました。

 

首謀者でもある大半の将校は、

法廷闘争の後に銃殺刑に処されました。

 

また、

事件直後は、

(帝都)不祥事件と呼ばれていましたが、

今日ではクーデーター未遂事件が起こったその日付から、

二・二六事件
と呼ばれています。


二・二六事件が起こった2月26日は、

二・二六事件の日」
として記録されています。

 

 

最後まで読んで頂きありがとうございます🙏